そのころ、河原町は僕らの庭だった

ことのはじまり

友人が大学時代の思い出を書いていたのをみて、自分も思い出話がしたくなった。京都に住みだして、途中二年空いたものの、九年目になる。Golden Virginia の煙と Jack Daniel でできていた(ついでに体重も 10kg ほど軽かった)10年前の自分の話を少しする。以下はアラサーのおじさんが昔のことを思い出補正増し増しで語ったポエムです。

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

なぜ京都に来たか

海なし県の田舎から、進学という縁があって京都にきた。僕の地元では進学といえば東京で、卒業式の日には皆が口を揃えて東京のどこに住む、何線の何駅周辺にアパートを借りたという話をしていたのをよく覚えている。その頃は今以上に捻くれていた僕は「俺は東京なんかに迎合はしない。関西で自分らしく生きてやる。」と躍起になっていたような気がしないこともない。関西への進学を決めたのは他でもない、趣味の影響だ。

人一倍面倒臭い性格のおかげで学校に友人はほとんどいなかった。そんな友人の少ない僕には自転車という趣味があった。自転車、といっても仲間で力を合わせて長距離を短時間で駆け抜けるような類のものではなく、夜な夜な街に繰り出しては飛んだり跳ねたりでご近所さまにご迷惑をおかけする類の自転車だ。学校の皆が真面目に授業を受け、惚れた腫れたで一喜一憂しつつも将来に向けて着実に歩を進めている中で、僕だけは授業も受けずに自転車に乗っていた。

学校にはほとんど友人がいなかった僕だが、学外にはぽつぽつと友人ができてきた。学校という枠を外れ、スケートボードインラインスケート、自転車といった営みに情熱を見出した他校の学生と少しずつ交流を深めていった。そこで知り合ったのが隣町に住む S だった。S は自転車が上手いだけでなく、顔も広く、ネットを通じて全国に友達がいた。そんな中でも異色を放っていたのがある関西のチームだった。

そのチームの連中はフットワークも軽く、全国に遠征をしていた。自転車を始めて一年もしないうちに S を通じて彼らに会う機会ができた。そして、幾度かの機会を重ねたのちにそのメンバーの一人が「お前、関西に来て俺たちのチームに入れよ」と声をあげた。東京や神奈川にいい学校があろうと知ったことはない、僕は絶対関西に行くと心に決めたのはこの瞬間だった。

 

京都での学生生活

こうして僕は海無し県の高校を出て、関西の京都にやってきた。関西の友人のために京都まででたとは言え、彼らの住まいは滋賀、大阪、兵庫とバラバラで毎日会うわけではなかった。だが京都は流石に学生の街、僕のような学外にそれぞれの情熱を見出した連中と知り合うまでにそんなに長い時間はかからなかった。

普段一緒に自転車に乗るメンバーは二人ほど。一人は京都出身で大阪の大学に通っている大学生、もう一人は他県出身で専門学校に通っていた。時期によってはこのメンバーに何人かが加わったりもした。僕ら三人の平日は 12 時からお日様が昇るまで自転車に乗り続けた。大体朝の 5 時か 6 時になったらやよい軒でチキン南蛮定食を食べた。誰が一番お替りをできるか無駄に競った(全部完食しました)。週末は大阪か神戸に行ってチームの連中と共に時間を過ごした。

自転車に乗らない時は、新しく販売された自転車のパーツ、新しく公開された動画のことばかりを話していた。具体的には、「何処そこの何某が新しい動画を出したが、俺の方が絶対に上手いし格好いい」とか、「何某というブランドから出たあのパーツが最高(または最低)」とかいう話ばかりだった。そのうち自分たちでも動画を出そう、という話になり撮影も始まった。

撮影が始まればそのことばかりを考えるようになった。次の動画ではあれをあの公園でしてみよう、あいつにはあの技をあの場所でしてほしい、とかそんなことで頭がいっぱいだった。大学で知り合った可愛いあの子のことは二の次だったと思う。

当時の僕はただでさえ金がないのに(これは今もあまり変わらない)、大酒喰らいでヘビースモーカーだった。比較的早い時間から自転車を乗った日の夜は、そのままのメンバーで僕のアパートでウイスキーばかり飲んでいた。その時から僕はずっと Jack Daniel ばかりを飲んでいたし、周りもそれに合わせて飲んでくれていた。これから先のことは知らない。ただどこかの誰かよりも格好良く自転車の技を決めて、それを誰かに認めてもらえれば僕の世界は満たされた。それを肴に紫煙を燻らせながら Jack Daniel を飲めれば世の中は事もなし、そんな気分だった。

 

その後のはなし

しかし、こんな生活がずっと続くわけがない。皆、すこしずつ大人になっていった。諸々の事情で夜な夜な街に繰り出すことが少なくなっていく。どこでも自転車と電車で繰り出していた僕らも車の免許を取り、職を探し、卒業していった。

「俺たちはそこら辺の大学生と違う」、「勉強しかしてないバカどもには負けない」という訳の分からない自負はいつの間にか薄れた。きっと彼らは彼らなりの情熱があったのだと、常識的なことを本気で思うようにもなった。僕自身も諸々の事情から大学を出てからは京都を出た。

幸いなことに大学を出てからまた京都に戻る機会を得た。だけど、あの時の路地裏はもう僕らの庭じゃない。学外に情熱を見出した愛すべき健康優良不良少年少女のものだ。彼らはきっと当時の僕たちのように自分たちが世界で一番格好いい存在だと信じて疑わないだろう。僕はそれを否定することは絶対にしないし、むしろ陰ながらに応援している。

自転車を完全に辞めたつもりはないし、そのつもりもない。人様に迷惑をかけない範囲で、法を遵守しながら細々と楽しみたいと思っている。だけど、ボロボロの服を身に纏って、汗だくになりながらわずか数秒の動画を死に物狂いで撮ろうと街を駆けたあの情熱は自転車以外のところへ向かってしまった。

見方によっては、これは悲しいことなのかもしれない。けれど仕事などを通じて自分の時間を投資する価値のあることを見つけたのであれば、それは決して悪い事ではないと思う。別に自転車が乗れなくなったとしても世界が終わるわけじゃないし、海外のプロライダーでも引退後に素晴らしいキャリアを築いている方は山ほどいる。我が物顔であの街を駆けていたあの情熱が死んだわけではないのだ。ただその戦場が変わった、それだけのことなのだ。グラスに注いだ琥珀色はそれをいつも思い出させてくれる。

この病原菌騒ぎが落ち着いた頃には、また街を駆ける彼らの元気な姿が見たいと思う。若気の至りを美化するつもりは毛頭無いけれど、できるだけ人様に迷惑をかけずに、彼らなりの情熱を追い求めてほしいと強く思う。